20110621

旗本とは

『旗本とは?』


●旗本退屈男の生活とは ?
『旗本退屈男』(佐々木味津三原作)の主人公・早乙女主水之介は取り囲んだ悪人たちに向かって、こんなセリフを吐く。
「無役ながらも直参旗本千三百石早乙女主水之介、天下御免の向こう傷、諸羽流工眼崩し、とくと受けてみよ」と。ここで「無役」と言っているから、かれは御役に就いてい
ない「小普請」である。「直参」というのは将軍直属の家来という意味、また「旗本」は将軍直属の名称だから、このセリフはダブっていることになる。その上、面白いこと
に「千三百石」と早乙女家の収入までも御披露している。

小普請とは、幕府機構の役職に就かない旗本や御家人のことで、石高によって所属が分けられていた。凡そ、三百石以上を「旗本」といい、以下を「御家人」といった。
三千石以上の無役の高禄旗本を「寄合」といい、三百石以上から三千石未満の小普請を「小普請支配」という。将軍に〃御見得〃(式日に登城し挨拶する)できるのは、禄高三百石以上の旗本だけである。それ以下は御家人で、無役の者は「小普請組」に入れられて組頭の支配を受けた。(二百石級でも旗本扱いとなる者もいた)

だからだろうか、千三百石の早乙女主水之介は暇をもてあまし、黒羽二重の着流しに蝋色鞘の大小の落とし差し、素足に雪駄という出立ちで、退屈の虫を散ずるために全国各地へ出掛けていく。もちろん、これは小説だから許されるので、実情は厳しい御目付の監察下にあり、新吉原通いもままならないし、無断で、旅行や外泊もできない。

また、無役ではあっても「小普請金」の負担があった。これは幕府の公共工事の人足費用のことで、無役の旗本・御家人に課せられたものである。一年間の小普請金は、一千石は十両で、百石増しごとに一両を加算した。従って、早乙女家は千二百石だから年十二両を納めることになる。一年にたった十二両とは、千二百石の早乙女家には大した負担ではないと思えるが、じつは何処の旗本も台所事情は火の車で、小普請金の提出は決して小さな負担ではなかった。(時代により変更があり、享保の頃は百石に付き二両)

●早乙女主水之介の家計簿
家禄千三百石とは、千二百石の生産がある土地を知行する権利を得たことで、これは早乙女家の私有の土地ではない。仮に千二百石の米を生産したとしても、すべて、それが収入とはならない。だいたい、旗本領の収税率は三つ五分(三割五分)だったので、四百二十石が収入となり、一石の米価を平均一両とすれば四百二十両になる。

小普請の旗本とはいえ、軍役に定められた武具や家来を調えなければならない。千二百石の軍役とは、弓一張、鉄砲一挺、鎗三本を準備し、「侍六人、立弓一人、鉄砲一人、鎗持三人、甲冑持二人、長刀一人、草履取一人、挟箱持一人、押足軽一人、馬口取二人、沓箱持一人、雨具持一人、小荷駄二人」の計二十五人の家来を抱えることになっていた。侍は若党といい、他は足軽、仲間である。

四百二十両から、家来二十五人分の給金、さらに奥屋敷で使用する女中、下女、乳母の給金を支払い、残金が早乙女家の家族の生活費となる。主水之介は千二百石の旗本としての体面があり、贈答品やその他に出費も多い。屋敷では乗馬を飼育し、その飼料もかかるのだ。千二百石の早乙女主水之介の生活は決して楽ではなかっただろう。

●旗本屋敷の大きさは?
早乙女主水之介の屋敷は「本所長割下水」にあったというが、どれほどの規模であったろうか。屋敷の大小はいうまでもなく石高によって定められており、寛永二年(1625)の規定によれば、二百石の旗本で四百坪の宅地が基準になっていた。

三百石から二百石までは、二十間か三十間四方。
七百石から四百石までは、二十五間か三十間四方。
千五百石から八百石までは、三十間四方。
千六百石から二千五百石までは、三十三間四方。
二千六百石から三千石までは、三十間か四十間四方。
四千石から六千石までは、五十間か四十間四方。
七千石から九千九百九十九石までは、五十問四方。
これによれば、主水之介は三十聞四方(九百坪)の屋敷を拝領していたことになる。『忠臣蔵』で赤穂濃士が討ち入つた本所松坂町の吉良上野介の屋敷は、総坪数二千五百五十坪であつた。吉良家の石高が四千二百石だから規定に近い広大な屋敷であったわけだ。
屋敷は知行とともに将軍から下賜され、家督とともに相続することになっていた。屋敷を下賜されたといっても所有権はなく、あくまて拝領であり、屋敷替えや明け渡しを命じられることもある。また、高禄の旗本は、下屋敷や中屋敷を賜っていた。

●知行取りと蔵米取り
知行取りとは、与えられた知行地から収税することで、石高で表わされる。知行地が三千石以上ある旗本は、知行地に陣屋を構えて収税を行なったが、三千石以下の知行地は幕府の地方機関の代官がこれを行なった。

というのは、知行地は一ヶ所にあるわけではなく、各村にわたって分散している場合が多く、村に「OO分、二十五石五斗二升。△△分、十一石七斗六升」など細かく分かれていた。『武蔵田園簿』は武蔵国の土地台帳で、誰がどこの土地をどれほど知行していたか、詳細に出ている。

蔵米取りは、知行地はなく現米で支給され、「慶米OO俵」と俵高で表わされる。多くは下級武士(御家人)の給与の表示で、切米取りともいった。しかし、なかには廃米二千俵という旗本もあり、これは知行二千石に相当する高禄である。

例えば、二千石の知行地から二つ五分で収税すると七百石になる。一石は十斗である。幕府の一俵は三斗五升入りだから、七千斗はちょうど二千俵となるのだ。だから、慶米三百俵といえば、三百石の知行取りと同じと思えばよい。

ただし、知行地をもつ旗本は収税のほかに、さまざまな利点があった。田畑以外の生産品の課税もあったし、年貢の前納や御用金を強いることも出来た。その点、蔵米取りは幕府から直接渡されるから、特典はない。毎年、庚米は春、夏、秋の三季に分けて支給された。旗本や御家人は、自宅で消費する飯米の他は売り払って換金した。
 
″鬼平″こと長谷川平蔵の場合
池波正太郎の『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵は実在の旗本で、その経歴を追っていくと、旗本の役職昇進の道程が分かる。
平蔵は延事二年、家禄四百石の長谷川宣雄の妾腹の子に生まれた。幼名を鋭三郎、名は宣為(のぶため)。父の宣雄は京都町奉行にも任じられたほど、旗本の中でも傑出した人物であつた。家庭の事情でお目見がおくれ、二十三歳の明和八年十二月、将軍家治にお目見した。ふつう、十二、三歳でお目見をするから、ずいぶん、遅いお目見である。

そうした複雑な家庭事情もあって、無頼漢と交流し〃本所の銕″の異名を得たのであろう。安永二年六月二十二日、父宣雄が死去、平蔵は家督を許され、家禄四百石の当主となった。が、無役の「小普請」であり、その後も放蕩生活を続けたらしい。
しかし、不思議にも翌安永三年四月、西丸御書院番士となり、翌年には西丸進物番まで仰せ付けられた。これは先祖の武功と父親の功績によるものと思われる。

御書院番は、御小姓組と同じく将軍警護の役で、平時は営中の要所を固め、儀式には御小姓と交替で将軍の給仕にあたる。将軍の出行には前後を護衛し、使命を受けて遠国に出張する。役料はないが、出世の糸日となる役目。

御書院御番頭
六番まであり、御番頭は四千石高、諸大夫・菊の間席。下に与力十騎、同心二十人ずつを支配する。

御書院御番組頭
六番まです人ずつあり、番頭を補佐して組衆を指揮する。布衣千石高。菊の間襖際席。

御書院御番
一組五十人宛いる。二百俵高で虎の間席。(平蔵の就いた役・組頭は水谷伊勢守)

御進物番
御書院番、御小姓番から出役し、大名・旗本からの献上品や、将軍から下賜の品などを取り扱う役。五十人いた。

平蔵は天明四年(1784)十二月、西丸の御徒頭(おかちがしら)となる。千石高の役なので、家禄四百石に足高(たしだか)六百石が加えられた。

御徒頭
将軍出行のとき、先駆して道路を警戒するのが任務。平常は玄関中の日廊下、糟の間に詰める。二十組あった。布衣・千石高、臨踊の間席。武芸の熟達した者がつとめるので、家禄の少ない者からも抜握された。

平蔵は天明六年七月、番方(武官)の最高位御先手弓頭に就き、翌年九月、盗賊火附改の加役(兼任)を命じられた。この加役は翌天明八年の四月までで、同年九月からは定役(本役)となり、寛政七年五月まで、盗戯火附改を加役・定役ふくめて都合九年も務めている。平蔵は岡っ引を巧みに使って、実効を挙げたという。

御先手御弓頭
戦時には、御先手御鉄砲頭と共に将軍の先陣を務める役で、最初は両方で三十四組あったが、のち弓八組、鉄砲二十組となった。この中から「盗賊火附改」の本役一名が出役となり、随時に加役、増役が出役した。その他は、蓮池、平川日、梅林坂、紅葉山下、坂下の五円を交替で警護し、東叡山や増上寺へ将軍参詣の折りに両寺を警備する。

千五百石高で布衣、瞬踊の間席である。一組に御先手与力が五~六名、同じく同心が三十名付属した。

盗賊火附改
盗賊火附改を拝命すると御役料として四十人扶持、御役扶持として二十人扶持の計六十人扶持が支給された。一人扶持は一日米五合だから、年に一石八斗。その六十倍、百八石となる。盗賊火附改に就くと城内へは出仕せず、自分の屋敷を役宅とし、配下の与力、同心を使つて、江戸府内の治安取締りに活躍した。席次は当然に御先手組の上座となる。

●大田忠相の場合
旗本から異数の出世を遂げ、一万石の大名に昇り詰めた大岡忠相の場合を見てみよう。忠相は延宝五年(1677)、旗本千七百石の大岡忠高の四男に生まれたが、十歳の時に一門の旗本大岡忠真(千四百二十石)の養子となる。元禄十三年、家督を継ぎ、元禄十五年御書院番となり、翌年地震後の普請を奉行した。宝永元年、御徒頭となり布衣を許される。同四年(1707)、御使番となり、翌年には御日付へ昇進した。

正徳二年(1712)には山田奉行となり、従五位下能登守に叙任。さらに享保元年(1716)、御警請奉行、翌年には町奉行となり、越前守と改めた。元文元年(1736)には寺社奉行に昇り、一万石格・雁の間席となる。寛延元年(1748)、寺社奉行兼任のまま奏者番となり、三河国に領地を与えられ一万石の大名となった。
忠相の歴任した御書院番、御徒頭はすでに述べたので、御使番から始めよう。

御使番
戦時は陣中を見回り、将士の勇は、戦功の有無を監察し、伝令や斥候を行なう将軍の幕僚であつた。平時は命令伝達、上使、諸国の巡察、諸役の目付を行なった。布衣、千石高の役で、菊の問御襖際席。定員は古くは二十八人だつたが、しだいに増員された。

御日付
旗本を監察糾弾する役で、御目見以下を監察する御徒目付、御小人日付を支配する。古くは二十四人もいたが、享保の頃から十人となった。職域は広く、礼式・規則の監察用部屋から回つてくる願書、伺書、建議書の意見具申を、将軍や老中に申し立てられる。殿中を巡視して諸役の勤怠を見回り、評定所裁判にも陪席した。また、将軍の座に出入りするので、当直目付は下部屋で毎朝沐浴することが許された。御目付は脇見もせず、直角にまがって御玄関へ行き、帯刀のまま式台に上がり、御徒目付、組頭の出迎えをうけ、城内保安の報告を受けた。

山田御奉行
伊勢神宮を守護し、遷宮祭祀を掌り、伊勢・志摩両国の訴訟を聴断する役。定員一名。千石高で、役料千五百俵である。
山田奉行所の与力は六騎、同心は七十名で、ほかに水主四十名がいた。

衛普請奉行
御城大奥向、並び東叡山、また所々の役屋敷を司り、諸国神社修復、臨時に之を勤む。御普請奉行は二名、二千石高。中の間詰である。

町奉行(江戸)
「大江戸八百八町」と一日にいうが、八百町近くなったのは正徳年間であり、天保の頃には千六百七十九町を数えた。これら町の中の寺社の地域を除いたものが町奉行の管轄であった。門前町はのち町奉行の管轄となった。町奉行は一月交替で月番と非番があり、月番の町奉行は門を開けて訴訟を受け付ける。非番の町奉行は門を閉じて、前月受けつけて未処理の訴訟を処理した。

町奉行は三千石高。位は従五位下朝散大夫の小大名級、芙蓉の間席。御寺社奉行、町奉行、勘定奉行の順で、これを三奉行といっていた。京都・大坂など重要な都市の奉行を務めた者が抜羅された。巧く務めれば御寺社奉行に昇進する。

御役料は寛文の頃は千俵だったが、大岡忠相の頃は御役高三千石であった。宝暦の頃には御役金二千面に改められ、幕末には二千五百両になった。ただし、臨時の支出を許されていた。

*大岡越前守患相 享保二年~元文元年(1717~ 1736)

*遠山左衛門尉景元 北町 天保十一年~天保十四年(1840~ 1843)
    〃     南町 弘化二年~嘉永五年(1845~ 1852)

寺社奉行
五万石から十万石級の大名が任命される役職。大岡忠相は五千九百石の禄高で元文元年に寺社奉行になり、役高を加え、一万石の格を受けて雁の間席となった。さらに御秦者番を兼帯して役高を知行高に加増され、一万石の大名となって寺社奉行を続けた。

*大岡越前守忠相 元文元年~寛延四年(1736~ 1751)




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