20170609

第59回 歴史ツーリング 沼津編

 

 

8:00 若葉駅西口 →  乗運寺(若山牧水の墓)→ 千本松原公園 → 沼津港で食事・土産 → 松陰寺(白隠禅師の寺) → 興国時城址(北条早雲) → ディアナ号の大錨(いかり) → 道の駅 「朝霧高原」 → 若葉駅 18:30

 

2017年6月9日の午前8時、東武東上線若葉駅西口を出発し、関越、圏央道、東名高速で最初の訪問地、沼津の乗運寺に到着した。この寺には、自然と旅と酒をこよなく愛した歌人・若山牧水の墓がある。

今日も美しい景観を残している千本松原は大正十五年(1926)、伐採の危機に遭遇した。静岡県が千本松原を伐採して開発計画を推し進めようとしたとき、敢然として反対に立ち上がったのが牧水であった。

 

千本松原は天文年間(1532 ~ 54)、この地にやってきた増誉上人が潮害に苦しむ村人を救おうと松苗を植えたのに始まる。最初は松苗が根つかず難儀していたが、上人は一本一本、経文を唱えながら植え付け、苦心の末やっと植林に成功したという。村人は感謝してその徳を称え、草庵を建ててそこに住んでもらうことにした。それが現在の乗運寺で、千本松原には増誉上人の銅像もある。

 

 

 

 

 

 

沼津港で昼食後、松陰寺へ。

「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」といわれ、禅画「達磨像」でも有名な白隠禅師が宝永四年(1707)の富士山大噴火で破壊された松蔭寺を再興した。

 

 

次に松陰寺から山へ向かって正面に見えてきたのが、山の先端に位置する中世の山城の遺構「興国寺城」で、観光地としての整備はされていなかった。

 興国寺城は北條早雲の出世の第一歩を踏み出した城として有名で、徳川家康の三河時代には高力清長、本多重次とともに岡崎奉行を務め、“仏高力、鬼作左(重次)、どちへんなしの天野康景”と評された、徳川家家臣の天野康景が城主をつとめていたこともあった。

 

*どちへんなしとは公平なという意味である。

「ディアナ号の大錨」

嘉永七年(1854)の秋、下田港に停泊中のプチャーチン提督のロシア軍艦ディアナ号が安政東海地震にあい破損し、その修理のために戸田(へた)に向っていたところ暴風雨に見舞われて流され、冨士郡宮島村の沖で沈没した。このとき宮島村村民は地震直後にもかかわらず、ロシア兵士上陸のために献身的に協力した。そうした経緯から富士市は下田市、戸田村とともに幕末の日露友好交流の地となった。

 沈没した軍艦ディアナ号の大錨は、地元民から“唐人の根っこ”と呼ばれていたが、

昭和五十一年(1876)に海底から引揚げられ、プチャーチン提督の銅像とともに、緑道公園の一角に設置された。

 

帰りは、富士麓の西側を通り、朝霧高原の道の駅で休憩し、河口湖から中央高速経由で戻りました。

 

 

 

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