<第33回 上里町・神川町ツーリング>

金窪城跡
金窪城跡

10:40黛神社見学(上里町)

11:00金窪城跡見学(上里町) 

11:20陽雲寺見学(上里町) 

11:50丹生神社見学(上里町)

12:20昼食「たち川」(上里町)

14:30渡瀬・切支丹宗徒の墓?(神川町) 

<金窪城と神流川合戦> 

 天正十年六月十九日 金窪城は治承年間に武蔵七党の丹党に属す、高麗郡加治荘を本拠とした加治家季が築いたといい、元弘年間に新田義貞が築いて、家臣の畑時能が居城したとも伝える。いずれにしても、武蔵国と上野国の国境の金窪城は重要な位置を占めていた。

 その後、斎藤別当実盛の子孫の定光、定成、定利の居城となった。 城は土塁による平城で、200メートル×150メートルの方形。北側に元小山川が流れ、往時は堀の役割を果たしていたという。

 天正十年(1582)六月十九日、この金窪原に於いて織田家の重臣滝川一益と北条氏直の壮絶な合戦が繰り広げられた。“神流川合戦”である。

 その月の二日・本能寺の変が起こる。厩橋城にいた滝川一益にその凶報が届いたのは、六月九日(七日ともいう)だったというが、ずいぶん時間が掛かっている。中国路の羽柴秀吉には三日の夜、越中の柴田勝家でさえ四日には報せが届いていた。さらに小田原の北条氏は一益よりもいち早く情報を得たらしく、ひそかに関東の諸将に伝令を飛ばしていた。 一益隷下の上野衆の中にも情報が錯綜し、しきりに一益に問い合せてきた。一益の宿将たちは諸将の動揺を配慮して、真相を隠せと進言したが、一益は「隠してもやがて明らかになることだ」と、諸将を呼び集めて信長生害の様子を話し、「自分は弔い合戦をするべく急ぎ上洛しようと思うが、その成否は諸将の心しだいである」と訴えた。これを聞いた諸将は一益の義心と表裏なき人柄に感動し、その協力を約した。

 これらの諸将とは、倉賀野城の倉賀野秀景、国峰城の小幡信貞、金山城の由良国繁、安中城の安中忠政、松山城の上田朝直、忍城の成田氏長、箕輪城の内藤昌月などである。 おりから武蔵鉢形城の北条氏邦が動き出した。同月十九日、一益は手勢三千と上野衆の三千を率いて神流川を渡り、金窪原に氏邦軍と戦い、さんざんに打ち破った。 ところが、小田原の北条氏直が三万余の大兵を率いて応援に駆け付けたので、形勢逆転。一益は先陣に立って奮戦したが敗れ、厩橋城に引き返した。 戦死者二千七百六十余という。

 一益は城下の寺で供養を行なうと、上野衆を招いてその功労を謝し、「再会期し難し、是れ即ち生別なり」と酒宴を開き、自ら鼓を打ち謡い、秘蔵の刀剣類を分け与えた。 翌朝、一益は残兵一千と共に厩橋を発し、松井田、碓氷峠を越え、小諸に着いた。

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