<第34回 行田・羽生歴史ツーリング>

 今回は北関東平野を代表する史跡や地域の住民達が築いた文化が色濃く残っている県北部を見学しました。

 

10:30成就院(行田市)三重塔見学 

   天正年間に創建したと伝えられ、

   享保時代に、三重塔を建立。

   県内でも希少な文化財となっている。

 

11:10真名板古墳(行田市)古墳・板碑見学 

   全長 90.5mの古墳。真名板薬師堂の境内にあり、板碑、山門なども見ごたえある。

11:40JAほくさい行田農産物直売所 

12:10食事(日本料理 はす蔵)

14:10八幡神社 彫刻・社殿見学

    彫刻などの意匠がすばらしい神社。

   「七福神」、「神功皇后縁起」、

   「大蛇退治」の彫刻がある。

14:45羽生城跡・天神社 

15:15田舎教師ブロンズ像・弥勒小学校

  「田舎教師」のモデルとなった人物が

   通っていた学校跡地。人物を偲びその銅像が建てられている。跡

15:35永明時 古墳・大銀杏など 

16:00雷電神社 大久保彦左衛門ゆかりの地

 

 

 

全長 90.5mの古墳。真名板薬師堂の境内にあり、板碑、山門なども見ごたえある。

現在は写真の石碑があるのみで、城跡を感じさせるものはない。

 

<羽生城盛衰史 >

築城年代は明確でないが、天文年間初期であるらしい。天文五年(1536)には広田式部大輔直繁が城主となっていたとみられる。 利根川を挟んで上野国邑楽郡と対峙するこの城は、沼沢地に細く突き出た地に築城された平城で、東南北の三方は沼池であり、西だけが平地に続き、ここに大手口があった。

 天文二十一年、小田原北条氏によって落城し、中条出羽守が城代となって守城した。永禄三年(1560)、越後の上杉謙信が関東へ出陣し、羽生城を攻め落とし、広田直繁・木戸忠朝の両人を安堵した。以後、上杉方の城として、甲斐の武田氏、北条氏との抗争に翻弄される。 天正二年(1574)、上杉謙信は羽生城が越後から遠くにあるので後詰(救援)が間に合わないことを恐れて城を破却させ、城主木戸忠朝以下一千余の将兵を上野国勢多郡の膳城へ移した。翌天正三年、北条氏庵下の忍城主成田下総守氏長が羽生城を支配し、成田長親を城代にした。

 天正十八年、豊臣秀吉の小田原北条氏攻撃がはじまると、時の城主善照寺向用斎は氏長の命で羽生城を捨て、忍城に籠城。小田原北条氏滅亡後の同年八月、関東へ入部した徳川家康は、羽生城二万石を大久保忠隣に与えた。

 文禄三年(1594)忠隣は亡父忠世の跡を継いで小田原六万五千石の城主となった。忠隣の叔父彦左衛門は所領地があったので、そのまま羽生城に居住していたといわれる。

 しかし、慶長十九年(1614)一月、忠隣が改易となり、近江に蟄居を命じられたので、羽生城は壊され、その後は幕府の天領として代官の支配となった。

 羽生城の城郭部分は東西七百メートル、南北四百メートルで、大手口を入ると二の丸があり、そこは東西三十間、南北三十八間余。橋を渡って本丸となり、形は円形で東西六十間余、南北四十間余という。本丸の北東に天神曲輪があり、今も天神社が祀られている。

 

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