<越生・毛呂山 山寺ツーリング> 第29回 2011/9/4

奥武蔵は古来より修験や山岳仏教の修行の場であり、山里のお寺として住民に親しまれて来ました。今回はその一部ですが、あまり知られていない魅力的な山寺を訪ねました。

 

時間  見学場所

10:40 弘法山観音弁財天(越生町)見学

11:20 虚空蔵尊(越生町)見学

12:00 昼食「岩井屋」 (越生町)

12:40 講義

13:30 越生町自然休養センター(土産)

14:00 山猫軒(コーヒーやギャラリー見学)

14:40 全洞院(渋沢平九郎墓所)見学

15:10 渋沢平九郎自決の地見学

16:20 桂木観音見学

17:30 東松山駅東口解散

①弘法山観音

越生七福神の一つ(弁財天)。安産・子育ての祈願寺となっている。「新編武蔵国風土記稿」にも見晴らしが良いと書かれる山寺。

②虚空蔵尊

大高取山へ至る山道入り口にあるお寺。3月に開かれるだるま市は関東地方最後の季節に行われるものとして有名。石段が百八段ある。

③全祠院

越生七福神の一つ(布袋尊)。黒山三滝手前にあり、渋沢平九郎が葬られている。(詳細は今井講師のお話で)

④渋沢平九郎自決の地

飯能戦争における振武軍の副将で、敗走してこの地にて自決をした。(詳細は今井講師のお話で)

⑤桂木観音

行基菩薩の創建と言われる。秩父山地の東端に位置し、関東平野が広く見渡せる。

 

講師 今井敏夫 の歴史物語

 

飯能戦争と振武軍

 振武軍を組織した渋沢成一郎(喜作)は元は一橋慶喜の家臣であり、奥祐筆を勤め、将軍慶喜の大政奉還にもっとも強硬な反対論を唱えたという。慶応四年一月、江戸へ帰り、二月に結成の「彰義隊」の頭取として、上野の山に立て籠もった。  そもそも「彰義隊」の起こりは、一橋家の家臣が前将軍慶喜の冤罪をすすがんとしたことにある。これに同調する者が続々と増え、二、三千名に膨れ上がった。渋沢は頭取に推され、副頭取に天野八郎がなったが、両者は意見の対立を生じて分裂。渋沢は尾高藍香(惇忠)らと別軍を組織して、その初志を貫くことになった。 四谷新宿から二里の堀ノ内にある茶漬茶屋に集結、最初わずか二十名ほどだったが、噂を聞いた上野の同士も駈け付け、二百名になった。ところが、兵器がない。そこで九段坂上の幕府の兵隊屋敷に貯蔵してあった二百挺の銃と弾薬を、官軍を装って押収した。この銃は当時最高級のミニヘール二連発銃だった。一行はさらに西の田無村に入り、総持寺を屯所し、ここで隊名を「振武軍」と名付け、前軍・中軍・後軍の組織を整えた。

 役職は、頭    渋沢成一郎

     前軍頭取 野村良造

     中軍頭取 滝村尚吉

     後軍頭取 渡辺 遠

     会計頭取 榛沢新九郎(尾高藍香)

 榛沢新九郎は尾高藍香の変名で、会計頭取として参謀を兼ねていた。藍香の弟で、渋沢栄一の養子となった渋沢平九郎(後述)は中軍の組頭として参加、二十二歳だった。 振武軍は田無から箱根ケ崎に移動し、官軍の動向を把握するために、各所に斥候を置いて、情報の迅速な確保に努めた。隊員はその後も増加し、五百名を越えた。


●振武軍、飯能に布陣す

五月十五日の朝七時、雨天の中を官軍(大総督府)は上野の彰義隊を攻撃した。この情報が箱根ケ崎の屯所に届いたのは、その日の夜だったが、渋沢はただちに全軍に出動命令を下し、深夜十二時、箱根ケ崎を出発した。翌日の朝、田無に到着すると、「すでに昨日昼頃には、上野の山は陥落して、彰義隊は四散した」という報せが届いた。これでは、江戸へ進軍しても仕方なく、軍議の結果、天然の要害である飯能に退いて次の戦略を練ることにした。 十八日、振武軍は本営を羅漢山の麓の能仁寺におき、観王寺、智観寺、真能寺、広渡寺、王宝寺の各寺院に駐屯し、近辺の村々から軍用金、馬などを徴発した。本営の能仁寺に百五十名、智観寺に百二十名、ほかの寺院には四十から七十名ほどの隊士が分駐していたといい、総勢五百名くらいだった。そこへ江戸から逃げてきた彰義隊なども合流し、千二百余名にもなった。しかし、数は多いとはいえ、兵装備はまちまちであり、寄せ集めで組織的な戦闘は出来なかったし、その戦意も低かったようだ。


●官軍、飯能を包囲する

 上野の彰義隊を討滅した大総督府では、飯能の振武軍の討伐を決意し、五月二十日、大村、筑前、筑後、佐土原、備前の各藩に出動を下令し、江川太郎左衛門に糧食の調達を命じた。軍監尾上四郎衛門(福岡藩士)は備前兵を率いて、二十一日川越に入り、川越藩兵二百余名ともに坂戸村に向かい、二十二日主力の諸藩兵が扇町屋に到達して、飯能を完全に包囲した。総勢二千から三千名という。攻撃配置は以下のとおり。

・正面攻撃隊  野田より双柳を経て飯能に向かう。右翼隊は中山へ向かい攻撃する。      大村、佐土原、備前兵。(砲を有す)左翼隊は、筑前、筑後兵。

・右側背要撃隊 川越から鹿山を占領して、北方脱出を要撃する。               川越、筑前兵。

・左側包囲隊  直竹付近に位置し、主に青梅方向へ脱出する敵を要撃する。          筑前兵二小隊。・東北方第二線部隊 坂戸付近に待機し、同方面        へ脱出する敵を捕捉する。芸州藩、忍二小隊と砲一門。

・北方警戒隊  小川町付近に位置し、脱出して来る敵を迎撃、必要に応じて南下        し、飯能を攻撃する。前橋藩先遣隊(主力兵は到着せず)。


 官軍は五月二十三日、総攻撃を開始した。扇町屋に集結していた諸藩兵は一斉に行動に移った。各所で小戦闘があったものの、それらを駆逐して飯能村内に突入し、本営の能仁寺に攻め入った。渋沢成一郎はこの時の状況を『親藍香翁』の中で、二十三日の未明から戦闘が始まり、振武軍の兵士は正々堂々と実によく戦った。

 敵の官軍もそうとう手古ずった様子であったが、午前十一時頃、二発の砲弾が本営の能仁寺本堂の屋根に落ち、たちまちものすごい勢いで燃えだした。背後を火に煽られ、前面からは官軍が攻め寄せる。苦戦の味方は死傷者も多く、かつ疲労もはなはだしかった。背後は猛火、前面は銃砲火を浴びせられ、ついに陣地を捨てて脱走した。正面右翼隊は勢い盛んで、左翼隊の向かう飯能へ突入したので、戦線が交錯してしまった。そこで左翼隊は攻撃目標を中山へ変え、中山の智観寺に突入したが、抵抗は少なく、殆どが裏山へ逃げ去った。官軍は智観寺に放火し、周辺を探索後、扇町屋へ引き上げた。

 結局、飯能戦争は半日ばかりで終わり、振武軍は潰滅している。 この振武軍の記録は少なく、「維新史」では彰義隊の項にわずかに出てくるのみで、戦況の詳細もよく分からない。大局的にみれば、彰義隊の残党として見られたのだろう。

 渋沢成一郎と尾高藍香は四人の部下とともに横手村(日高町)に落ちのび、村の組頭役大川戸延次郎に逃走の道案内を頼んだ。もともと横手村は一橋家領であったから、延次郎らは身の危険も顧みず、渋沢らの頼みを承知し、自宅にかくまって酒食を供し、急ぎ着物を仕立てて、渋沢らを着替えさせた。 一行は道案内によって、横手、白子、虎秀の各村を経て、井上村の興福寺前まで来ると、官軍の見張人から誰何されたので、「官軍の者だ」と偽ってここを通過した。井上村の名主は、振武軍の落武者と知っていて、通過させたという。窮地を脱した渋沢らは、深夜吾野宿の中村房吉の家に辿り着き、翌二十四日未明、町人姿に身を変えて、秩父の大野村(都幾川町)の名主森田常右衛門方に至り、かれの協力で近隣にかくまわれ、数日後、上州方面へ逃れ、伊香保から草津方面に潜伏した。 藍香は時期をみて郷里へ帰ったが、渋沢成一郎はなお江戸へ出て、品川沖の榎本武揚の艦隊に身を投じ、明治二年五月の五稜郭陥落まで官軍と戦っている。面白いことに、箱館の榎本軍には彰義隊の一派もいたが、両者は最後まで仲が悪かったという。

 成一郎は五稜郭陥落後、榎本や大鳥圭介と共に投獄され、赦免後は大蔵省や富岡製糸場に勤めたが、のち実業界に転じて活躍した。


渋沢平九郎、黒山村で自刃す

 渋沢成一郎や尾高藍香は飯能戦争を無事に生き延びたが、渋沢平九郎の場合はなんとも不運であった。平九郎は弘化四年(1847)に生まれた。長兄は振武軍会計頭取・参謀長の尾高藍香(惇忠)、中兄は長七郎、姉の千代は渋沢栄一の妻であった。平九郎は長身白哲の貴公子で、学問・剣術(神道無念流)を兄たちから学んだ。慶応三年、渋沢栄一が徳川昭武に随行してパリ万国博覧会へ行くことなったので、平九郎は養子となり、渋沢家を継いだ。

 しかし、成一郎が彰義隊の頭取、兄の藍香もこれに加わると、平九郎も志を同じくし、やがて振武軍に加わって、中軍組頭から軍目付となった。 飯能戦争に敗れ、名栗山中を彷徨するうちに平九郎は一人となり、顔振峠の付近の一軒の茶屋で休息。そこの老婆から、大小を捨てて変装して逃げるように勧められ、越生方面には官軍が相当数入っているから、秩父方面を目指したらよい、と忠告された。平九郎は農民姿に変装し、大刀は預けて小刀のみを携え、茶屋を出立した。

 ところが、道に不案内でもあり、郷里への思いがそうさせたのか。秩父方面へは行かずに峠を越えて黒山村(越生町)の方へ下りてきた。そこへ運悪く、残敵捜索の芸州藩神機隊の斥候兵三名と遭遇した。(※神機隊は芸州藩(広島藩)が征討戦用に徴募した農兵隊で、隊員三百名。藩の正規軍ともに東征軍の主力であった。のち庄内軍を激戦するうえに破る活躍をみせた) 平九郎は尋問されて「私は秩父神社の神官だ」と偽ったが、疑われたので仕方なく、堂々と身分を明かし、小刀を抜きざまに斥候の小頭の左の腕を斬り落とした。なおも一人に斬り掛かったが、背後から右肩を斬りつけられた。それでもひるまずに前の敵兵に向かったので、兵は逃げながら小銃を放った。それが平九郎の太股を撃ち抜いた。

 兵は小頭を置き去りにして逃走したが、重傷を負った平九郎は「最早これまで」と覚悟し、路傍の石に腰を下ろし、割腹して果てた。五月二十三日、午後四時をすこしまわった頃だった。 逃げた斥候兵は味方を引き連れて戻ってきたが、割腹した落武者が誰であるか分からなかった。

 平九郎の首は、越生の報恩寺の門前に晒されたが、数日後、梟首台から消え、越辺川の土手や河原を転々としたという。この首は地元の有志によって報恩寺の境内に葬られた。遺体もやはり土地の有志によって、秘かに黒山村全洞院全昌寺に葬られ、「真空大道即了居士」の法名を贈られた。平九郎の見事な武者ぶりに感動した土地の人々は、その後“脱走のお勇士様”として語り継いだという。

 しかし、この“脱走のお勇士様”は誰であるのか、ずっと不明のままだった。それが渋沢平九郎と判明したのは十数有年後であった。それは比企郡安戸村の医師宮崎通泰が、平九郎と出合って負傷した斥候兵を治療したさい、彼らから聞いた平九郎の勇武に感激して、その状況を絵に描き、彼の懐中にあった辞世二首と詩を筆記した。それが十数年後、ある人に見せたところ、渋沢平九郎のものだと判明したという。 その辞世は、

「 惜しまるる時ちりてこそ 世の中の人も人なれ花も花なれ
     いたずらに身はくださじな たらちねの国のために生にしものを」

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