<第35回 館林・板倉歴史ツーリング>

<茂林寺>
<茂林寺>

文福茶釜の寺として知られる名刹。

 門を入ると両側に姿の異なる狸の置物が並んでいるのは、楽しい。

ちょっと奥にある一番大きな狸の像は、某鉄道会社の寄進であった。

 狸の恩返しをテーマにした昔話で、茂林寺の伝説ではタヌキが守鶴という僧に化けて寺を守り、汲んでも尽きない茶を沸かしたとされている。

<尾曳神社>
<尾曳神社>

天文元年(1532年)赤井照光が館林城築城の際、城郭の東北隅にあたる鬼門に守護神として創建された。

桜の見ごろには少し早かったが、神社脇の城沼、つつじが岡公園は花の季節には楽しめそうである。

<善導寺(榊原康政墓)>
<善導寺(榊原康政墓)>

善導寺

和銅元年(708年)行基菩薩によって開創された由緒ある寺であるが、建物は平成の移転により新築されたものである。荒れていた寺を整備した榊原康政の墓がある。

榊原康政の戦歴 

 榊原康政は、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝とならんで“徳川四天王”と称される。武闘派を代表する猛将で、戦場の功名は数え切れない。

 永禄三年以来、家康の側近として、同六年三河一向一揆、同七年吉田城攻め、元亀元年姉川合戦、同三年三方ケ原合戦等々……。つねに家康と共に戦塵の中を駆け抜け、天正十八年関東入国のさい、館林十万石を与えられた。

 三方ケ原合戦では敗れても浜松城へ入らず、戦場の東西島へ退いた。武田軍が城に攻めかかれば、横合から突き入れる策略である。しかし、武田軍はすぐには攻撃せず、今日の一戦の大勝に酔い、敵は攻め寄せては来ないだろうと油断していた。そこを康政はわずかな手勢で夜襲を敢行し、時を同じく、城外の各所に潜んでいた徳川兵も鯨波をあげた。武田軍は周章狼狽し、犀ケ崖の谷へ追い落とされて、多数の死傷者を出した。

 天正十二年小牧長久手の合戦では、康政は戦略上、小牧城の重要性を説き、小勢をもって秀吉の大軍を迎え撃とうとした。もとより全員討死の覚悟である。康政は城が板塀であったので、岡崎から白土を取寄せて塗り上げ、本格的な城構えに見せた。城兵の士気はすこぶる上がった。 秀吉は小牧城の様子を見て、「わが大軍を引受けて、あの小勢で防がんとは、大胆不敵の剛の者よ。徳川にはよい家臣があることよ」と褒め称えたという。

 康政の館林藩経営では、文禄四年に利根・渡瀬川の築堤を完成させ、慶長二年に武蔵から下野へ通ずる大道(日光脇街道)を開くなどの治績がある。 慶長五年の関ケ原合戦後、吏僚派の本多正信・正純らと対立し、政治の表舞台から退き、同十一年五月十四日に歿した。享年五十九。

 

<雷電神社>
<雷電神社>

室町時代の天文16年(1547年)、佐貫庄の赤井照光配下の、飯野城主篠崎三河守が社殿と境内を麗しく造り替えた。その社殿の一つは現存し(写真)、群馬県内現在最古の木造建築とされ、国指定重要文化財に指定されている。

 

 また、埼玉県鶴ヶ島市で行われている「脚折雨乞い」は、この神社の沼の水を汲むところから始まる。オリンピックに合わせ、4年に一度行われる祭りで、平成24年8月5日に行われる。

 

鶴ヶ島の脚折雨乞いの伝承

「昔から日照りのとき、脚折の雷電池(かんだちがいけ)のほとりにある脚折雷電社(らいでんしゃ)の前で雨乞いを祈願すると、必ず雨が降った。
特に安永・天明(1772~1789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。 しかし、天保(1830~1844)の頃には、いくら雨を祈ってもほとんどおしるしがなくなってしまった。

 それは、雷電池には昔、大蛇がすんでいたが、寛永(1624~1644)の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町)にある雷電の池に移ってしまった。そのため雨乞いをしても、雨が降らなかった

 

明治7年の記録

 明治7年(1874)夏の干ばつの時、「畑の作物が枯れそうなので、近隣の人が脚折雷電社で雨乞いをしたが、そのしるしがなかった。そこで脚折のムラ人が協議して、板倉雷電社に行き、神官に一晩中降雨を祈願してもらい、翌日、傍らの池の水を竹筒に入れて持ち帰った。脚折雷電社で、白鬚神社の神官が降雨祈願をしていたが、そこに板倉の水が到着したとたん、快晴の空がたちまち曇りだし、まもなく雨が降った。」

 

 

第35回歴史ツーリング(館林・板倉)
歴史ツーリング資料。榊原康政をもっとよく知りたい人はどうぞご覧ください。
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